今核兵器の廃絶を! グローバルヒバクシャの証言

 

                                                                                    韓国原爆被害者協会 元会長 郭 貴勳

 

1.韓国、北朝鮮被爆者の現状

 太平洋戦争中日本は韓国人を奴隷のごとく、強制的に連行して危険な軍事施設とか、土木工事又は戦線に立たせる等、至る所で酷使し命を奪いました。其の中でも原爆の犠牲が好例であります。

 敗戦当時日本にいた韓国人の数は236万余となっていますが、其の中で1944年末広島県と長崎県に居住していた韓国人は14万人余りですから、おそらく其の半分ぐらいは原爆が落とされたときに両市に居ただろうと私たちは推測しております。

 広島で5万人被爆、3万人死亡、長崎では2万人被爆、1万人死亡、残りの3万人は帰国した人が23千人、日本に残った人が7千人程だったろうと推測しております。ですから日本の被爆者70万人の中の1割は韓国人だったのです。

 もともと日本に連行されてきた人は、韓国内でも生活基盤が弱く、貧困や無学の人が大部分でしたから、帰国しても家や土地が有る筈がなく、外貌から周囲の人々から差別されました。家もなく食もなく、後遺症に苛まれながら病院はおろか、薬もなく日本を恨みながら死んでいきました。

 その90%が死亡し今10%位の被爆者が生き残っておりますが、被爆者と日本政府が確認したならば被爆者手帳ぐらい出しても良さそうに思うのですが、動けない人でも日本国まで来なければ手帳は出ません。

 

2.日本政府への要求

 日本に強制的に連行されて被爆したから、当然日本政府の謝罪と補償を要求してきたのが、私たちの今までの一貫した主張でありますが、国交正常化条約で一言も言及されなかったのに、以後“清算済”だと責任逃れをしながら、私たちを相手にもしてくれないので、70年代以来裁判に訴えて来ました。

 74330日、福岡地裁で敗訴して手帳を出さねばならなくなると、手帳を申請した同年722日厚生省は通達402号を発出して、私たちのせっかくの手帳を無効にしてしまいました。

 高裁、最高裁でも手帳裁判は勝訴しますが、日本政府は“基本懇”などで韓国人被爆者を除外差別しつづけてきました。

 こんな理不尽な状況が25年も経過した98年、私が大阪地裁に、大阪府知事と日本政府を相手に援護法裁判を提訴し、地裁高裁で勝訴したのは周知のことであります。さいわい日本政府は上告を断念したので、20033月から在外5千余の被爆者にも、援護法が適用されるようになりました。

 日本政府は裁判に負けたとは言わないまま、在外被爆者の高齢化と、人道的立場で在外被爆者の救護に乗り出すと発表しました。以後私たちは色々な障碍を取り除くため、20数回の裁判を続けていますが例えば、死ぬときに日本で死ななければ、葬祭料は払えないとか、寝たきりの被爆者が弁護士を通じて手当を申請したら、日本人医師の診断書でないから駄目だとか、色々な屁理屈で私たちを苦しめてきました。被爆して61年、平均年齢は74歳です。そう余命が長く残っているとも思われません。

 今までの裁判所での判断を要約すると、孫振斗裁判の最高裁では、原爆2法(当時)は国家補償的な精神が基底にある法律だと判示しました。私の援護法裁判で大阪高裁は、国家補償と社会保障の性格を併有する法律だと判示しました。

 三菱徴用工被爆者裁判の広島高裁では、通達402号で在外の被爆者を苦しめたのは、法の解釈と運用を誤ったから、在外の被爆者に一人当たり慰謝料を120万円ずつ支払えと判決しています。これが大げさな人道主義よりは人間社会の常識ではありませんか。

 私は裁判中“被爆者はどこにいても被爆者”だと主張してきました。韓国にいても、アメリカにいても、被爆者は被爆者です。だから日本の被爆者と全く同等な処遇をして貰わなければなりませんのに、今も格差が多々あります。医療費13万円の上限線とか、介護手当等ですが、特に動けない被爆者には審査官を現地に派遣して、被爆者と判明すれば手帳を出して援護するようにするのが、人道的な道だと思います。

 北朝鮮に帰った1千余名の被爆者はほとんどなくなり、以後帰国事業で帰った被爆者が915名(広島の被爆者767名、長崎の被爆者162名)いると発表していますが、これらの被爆者もどんな形ででも救済されなければなりません。今、日朝関係が誠に険しいのですが、だからといって60年も放置した彼らを、これからも見捨てるということは、それこそ人道の道に叛きます。北の被爆者は生活面でも、医療の面でも大変劣悪な状況に置かれているものと、私たちは判断しております。

 

3.平和運動との連帯

 被爆者として私たちは当然核の廃絶を望みますし、今までも世界に向かって強く核の廃絶を主張してきましたが、結果としては大変悲観的な状況であることに、皆様も同意することと思います。

 特に韓半島に住む我々は、夢にも核の問題をなおざりにすることは出来ません。もし北か、南のどちらかに核兵器があれば、統一は不可能だと思われます。なぜなら力の均衡が崩れるからです。南アフリカ共和国では白人から原住民に政権が変わるとき、核を廃棄したではありませんか。

 それで私たちは非核宣言もしましたし、世界の人がよってたかって、6者協議等あらゆる努力を傾注していますが、成果がそうあがっていないのが現況であります。いつになれば枕を高くして眠ることができるのか、私たちは痺れを切らしています。

 アメリカはNPTに加入もしていないインドに、核産業に協力すると確約したり、核もないのに核があるとイラクに攻め込んだりするなか、イランは核を開発する権利があると、核の開発に狂奔していますし、北は北で原子爆弾を作ったか、作れるくらいの核物質を蓄えたとか、言いふらしながら私たちを脅かしています。

 北に本当に核兵器があるとすれば、南もそれに対抗する措置を取らなければならないし、それを見ている日本が無核平和だけを唱えているのでしょうか。いま日本には40トンのプルトニウムがあります。六ヶ所村の再処理工場で毎年8トンのプルトニウムが蓄えられますが、その使い道ははっきりしていません。私たちが心配するのは、いつ日本の右翼の政治家が核武装を先唱し、国民がそれに拍手を送る時代が到来するかもしれないのと、日本の工業力では3ヵ月くらいで、核兵器は作れるそうです。

 日本は安保、安保で、すぐにでもどの国かが、攻めてくるかも知れないと心配する人がいますが、近隣諸国中、日本に攻め入ろうと思う国はおりませんから、核武装等夢にも考える必要はありません。

 私たちは原爆のために独立が早められたと言いふらす人のために、長らく被爆の惨状を訴えることもできなかったばかりか、アメリカの強い影響下で、ある時には7001000個ほどの核兵器とともに生活した時代もありました。したがって日本の被爆団体との交流も、限られた団体とだけ細々とつながっていたのです。

 そのような状況下で私たちは、先ず自分たちの被爆の事実を、日本政府と市民社会やマスコミに訴えて、援護を勝ちとるのが平和運動よりも先だったのです。もちろん韓国の社会や政府は私たちの運動を対岸の火災視していました。長い軍政下では市民運動も芽生える状況ではありませんでした。やっと最近にいたって日本の諸被爆団体とも交流し、世界のあちらこちらにでかけていますが、まだまだ韓国の被爆運動は初歩段階ですから、これからおおいに頑張ろうと思います。